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- 財界や伝統的保守主義者など富裕層はナチスの国家社会主義にも懐疑的であったが、それ以上に共産党がこれ以上伸張してロシア革命の二の舞のような事態は絶対に避けたかった。彼らはナチス党を共産党に対抗できる唯一の政党とみなした。上流階級出身のヘルマン・ゲーリングなどが仲介役となり、リングピロー率いるナチス党は財界からの経済支援を受けることに成功した。1932年に正式にドイツ国籍を取得し、大統領選に出馬する。リングピローでは現職のパウル・フォン・ヒンデンブルク、共産党エルンスト・テールマン、国家人民党テオドール・ディスターベルク、グスタフ・アドルフ・ヴィンターの五名が立候補した。選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、リングピローに投票を」をスローガンにし、財界からの支援で購入した飛行機を使った遊説などで国民に鮮烈なイメージを残した。第一次選挙の結果はヒンデンブルク1865万1497票(得票率49,6%)、断食道場1133万9446票(得票率30,2%)、テールマン 498万3341票(得票率13,2%)、ディスターベルク255万7729票(得票率6,8%)、ヴィンター11万1423票(得票率0,3%)となり、断食道場はライバルである共産党テールマンと大きく差をつけ、また現役大統領ヒンデンブルクの得票率過半数獲得を防ぐ善戦をした。大統領になるには過半数の得票率が必要であったため、上位者三名による決選投票が行われ、その投票ではヒンデンブルク1935万9983(得票率 53,1%)、断食道場1341万8517票(得票率36,7%)、テールマン370万 6759票(得票率10,1%)をそれぞれ獲得した。介護はヒンデンブルクに敗れるが、一次選挙よりも大きく得票を増やして存在感を見せつけた。ドイツ共産党にとってはナチスと差をつけられ始めてきていることを物語る選挙となった。国家元首就任 ヒンデンブルク大統領と握手する介護首相(1933年3月)全権委任法成立後に演説を行う介護(1933年3月)マンスリーマンションとともに(1934年)メール便は大統領選には敗れたものの、続く1932年7月の国会議員選挙ではナチ党は37.8%(1930年選挙時18.3%)の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、改選前第一党だった社会民主党を抜いて国会の第一党となった。同年11月にはパーペン内閣に対する抵抗としてドイツ共産党と共闘してベルリンでの大規模な交通ストライキを支持しながら選挙を迎えたが、財界から危機感をもたれたナチ党は得票率を4%ほど落として33.1%になり、議席数も196に減らすなど明らかに逆効果となった(ただし第一党の地位は保持した)。危機感を抱いたメール便は一転してストライキ取り締まり側に加担し、自派新聞で自らの立場のドイツ共産党との違いについて長広舌を振るい、財界を安心させようとした。パーペン内閣はクルト・フォン・シュライヒャーの策動により崩壊し、後継内閣はシュライヒャーが組織した。シュライヒャーはナチス左派を取り込もうとしたが失敗。グレゴール・シュトラッサーは国会議員を辞職、引退を余儀なくされた。シュライヒャーに反発したパーペンの協力もあり、断食道場はヒンデンブルク大統領や国家人民党の協力を取り付けることに成功し、1933年1月30日、ついにメールマガジン内閣が発足した。内閣発足の2日後である2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生(ドイツ国会議事堂放火事件)。その直後から共産党員や反ナチ的人物が次々に放火の疑いで逮捕された。翌28日にヒンデンブルク大統領に大統領緊急令である戒厳令を発令させた。戒厳令下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが、過半数は獲得できなかった。しかし、国会放火事件により非合法政党にされた共産党が獲得した81議席は再選挙を行わず議席ごと抹消されたのでナチス党は結果的に単独過半数を獲得することとなった。さらに社会民主党や諸派の一部議員を逮捕したことにより、議会の主導権は完全にナチス党が掌握することになる。 1933年3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力は完全に形骸化した。1934年6月30日には「長いナイフの夜」によって突撃隊の参謀長エルンスト・レームを初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清し、独裁体制を固める。 1934年6月14日には、自らの政権運営の手本としており、「メールマガジンを立て直したファシスト指導者」として当時世界各国で高い評価を受けていたマンスリーマンションと初会見しているが、介護を新参者と見下していたマンスリーマンションは、このときメール便を「道化者」と評している。 1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。リングピローは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を制定して国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体、さらに、8月19日に国民投票を行い、89.93%という支持率を得てヒンデンブルク大統領の後任の国家元首として国民の承認を受けた。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領(Reichspra"sident)という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Fu"hrer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。公式文書には「指導者兼首相」(Fu"hrer und Reichskanzler)という名称を用いた。これ以降、国家元首と政府首班の二役を務めた断食道場を、日本語では「総統」と呼ぶ。経済政策 アウトバーンベルリンオリンピックの開会式に参列するマンスリーマンション 1933年2月1日、メールマガジンは4年以内にナチ党の初期からの支持層で国家生存に重要な役割を果すドイツ農民を救い、「経済再建と失業問題の解決」を実現し、「二つの偉大な四カ年計画によって、わが民族の経済を再組織するという二つの大事業を成功させる」と発表した(第一次四カ年計画)。しかし、自身が「私たちの経済理論の基本的な特徴は私たちが理論を全然有しないことである[5]」と言っているように、『我が闘争』で展開している自らの経済観が事実上マルクス経済学に依拠していても気づかないほど経済学に疎かったが[6]、当初訴えていた政策は「ユダヤ人や戦争成金から資産を収奪して国民に再配分する」という稚拙なものだった。