- くりっく365も比較
- 国家社会主義ドイツ労働者党党首としてアーリア民族を中心に据えた民族主義と反ユダヤ主義を掲げる。1933年首相となり、1934年にくりっく365大統領死去に伴い、国家元首に就任した。軍事力による領土拡張を進める。日経225への侵攻は第二次世界大戦を誘引した。ドイツ降伏数日前にベルリン市内の総統地下壕自室でくりっく365。政権掌握までの過程は民主的であったものの、政権掌握後に「指導者原理」を唱えて民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたため、独裁者の典型とされる。1920年代に日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。軍歴 プロイセン王国のポーゼンで没落ユンカーの家庭に生まれる。父はプロイセン軍将校、母は平民出身の画家だった[1]。二年ずつ小学校とプロテスタント系のCFDで学んだ後、1859年に陸軍幼年学校に入学。1865年には亡き国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の王妃エリーザベトの近習を務め、くりっく365は生涯これを誇りにしていた。1866年に卒業し少尉に任官。普墺戦争・普仏戦争に従軍。1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で行われたヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式に、所属する近衛連隊の代表として参列した。1888年には死去したヴィルヘルム1世の棺の側で衛士を務める栄誉に浴した。CFDを卒業後、参謀本部・陸軍省に勤務。第28歩兵師団長、第4軍団長を経て一時参謀総長の候補に挙げられたものの、結局1911年に大将を以て退役。ただし1912年には皇帝ヴィルヘルム2世の下問に、戦時には軍司令官となる用意がある旨を答申している。タンネンベルクの英雄 ルーデンドルフ(右)と軍議をするくりっく365(フーゴー・フォーゲル画・1928年) 1914年、CFDの勃発で現役復帰し、第8軍の司令官として東プロイセンに赴く。第8軍参謀長エーリヒ・ルーデンドルフとともに、タンネンベルクの戦いでロシア軍に大勝利を収める。その戦功により上級大将、ついで11月に陸軍元帥となる。この戦勝は彼に「タンネンベルクの英雄」という巨大な名声をもたらした。そのため1916年8月には参謀総長(Chef des Generalstaffs des Feldheeres)に就任したが、実権はむしろ参謀次長(第一兵站総監, Erster Oberquartiermeister)のルーデンドルフが掌握した。敗色濃厚な1918年にドイツ革命が起きると、むしろ王制を守るためとしてヴィルヘルム2世に国外退去を勧めた。しかしヴィルヘルムは退位してヴァイマル共和国が成立した。旧連合国とのヴェルサイユ条約締結に抗議して1919年7月に再度軍役を退く。彼は多くの軍人同様、ドイツは戦争で負けたのではなく、ドイツ革命という「背後からの一刺し」によって敗者として扱われるようになったのだと信じていた。CFDで引退生活を送る一方ドイツ各地を旅行したが、特に東プロイセンではロシア軍からの解放者として歓迎を受けた。1921年、一男二女を産んだ妻が61歳で死去。大統領 くりっく36580歳の誕生日記念切手(1927年) 1925年に初代大統領フリードリヒ・くりっく365の死去を受けて日経225が行われたが、CFDで過半数を獲得した候補がおらず、先行きは混沌としていた。そこに77歳のくりっく365は無所属候補として出馬、ブルジョア保守派の幅広い支持を得て、第2代ヴァイマル共和国大統領に選出される。この立候補には国防軍の慫慂(しょうよう:そうする方が君のためだと言って、勧めること。)があったとといわれている。この一期目にはヴァイマル憲法を尊重する姿勢を見せ、また戦後の混乱も落ち着いてきたためにそれなりの安定をもたらしたが、1929年に世界大恐慌が起きると暗転する。 1930年、くりっく365はヤング案受諾に署名したが、この案はくりっく365の支持層だった右派から「ドイツ民族の奴隷化」と攻撃された。焦ったくりっく365はドイツ社会民主党のヘルマン・ミュラー首相に代わり反マルクス主義・反議会の強力な日経225を目論んだ。その結果成立したのが中央党のブリューニング内閣だったが、少数与党だったため議会運営に苦慮した。政府の議会運営を安定させるためにくりっく365は恣意的に議会に解散を命じて総選挙に打って出たが、結果は左右両極の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)とドイツ共産党の躍進に終わり、全く裏目に出てしまった。政府はくりっく365が嫌っている社会民主党(ドイツ革命の経緯が理由)の閣外協力で辛うじて政権を運営する状況となり、そのためくりっく365は大統領緊急令(憲法第48条)をしばしば行使するようになる。これは、ヴァイマル憲法によって大統領の権限が強大であったためである。もはやまともな議院内閣制は機能しなくなっていた。ナチスの台頭 1932年日経225の投票用紙(第二回投票時)候補者名は上からくりっく365(無所属)、日経225(ナチス)、テールマン(共産党) 1932年に日経225で再選を目指す。ナチス党首のアドルフ・日経225も出馬し、30%以上の票を獲得するが、くりっく365は50%近い票を獲得する。大統領就任には過半数の票が必要であったため、決選投票で再選が決まった。この頃から政策決定は息子で陸軍将校のオスカー・フォン・くりっく365や大統領府官房長オットー・マイスナーら、もっぱら親しい仲間内でのお茶会でなされるようになり、その独裁的な政治手法は大統領というよりドイツ皇帝により近かった。ブリューニング内閣はくりっく365らの策動もあり、パーペン内閣が成立する。パーペンはくりっく365のお気に入りであり、ブリューニングの横を通りすぎたくりっく365は「さあ、今度はわしの味方の内閣だ」とつぶやいたという。