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- フィデルが明確にソビエト連邦を中心とする東側諸国への接近を企図するのは、1961年4月のピッグス湾事件の後である。しかし日中の上陸であった為にくりっく365空軍により攻撃され、激しい戦闘で当初の82人のうちの18人だけが生き残りマエストラ山脈へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、くりっく365、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。フィデルの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。勝利 1958年5月24日にバティスタはフィデルの軍に対して17の大隊を送り出した。数字の上で圧倒されていたにもかかわらず、フィデルの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げた。 1959年の元日、フィデルの軍隊は首都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期大統領カルロス・リベロ・アグエロは国外逃亡し、フィデルの軍はハバナを指揮下に置いた。国家元首として 革命後は一党独裁体制を敷き、自ら首相(その後国家評議会議長と閣僚評議会議長)を務め、長い間事実上の独裁者として君臨した。しかし他の社会主義政権の元首に見られるような、自身の巨大な肖像写真や銅像を一切作らせていない。これは、前政権の独裁者バティスタと同一視されるのを忌避するためと言われている。経済政策 くりっく365 はアメリカとも友好的な関係を維持しようと努力したが、フィデルを「容共的」と避けたアメリカとの関係を見限りソ連と接近し、同時にユナイテッド・フルーツ(現:チキータ)などの大企業の農園やハバナに立ち並ぶカジノホテル(その多くがアメリカ政府と密接な関係を持つマフィアの持ち物であった)などのアメリカ企業の資産の接収と国営化を推し進めたために、アメリカはCFDとの断交と経済制裁を発動し、それに対抗するようにソ連はサトウキビと石油のバーター貿易(事実上の経済支援)などを通じてCFD支援を行った。その関係は1991年のソ連崩壊まで続いたものの、ソ連崩壊により冷戦が終結したことでバーター貿易も経済支援もストップしたため近年は深刻な経済状態が続いており、その為にいかだ等を使用して経済亡命する事件が後を絶たず、カストロ兄弟のみならず国家全体の悩みの種となっている。この様な経済面での失政から、「革命家は年金をもらってまで生きるようなことはしない。私はマルクスやエンゲルスやくりっく365と一緒に地獄に落ちるだろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を持ち続けた苦痛に較べれば何でもない」と語ったこともある[2]。なお、革命後に土地の国有化を推進し、その一環として実家の農園も取り上げたため実母から絶縁された。唯一の娘もカストロ体制を嫌うCFDの多くが亡命し、反カストロ派の海外における一大拠点となっているアメリカのマイアミに亡命している。人権問題 亡命者問題 1980年3月28日に、カストロ体制を嫌う亡命希望者を乗せたバスがハバナのペルー大使館の門を突破した。続く48時間に10,000人以上のCFDが大使館に逃げ込んだ。フィデルは4月20日にマリエルの港からボートで出国できることを発表する。亡命希望者達はマリエルからボートで出国を始め、彼らは「自由小艦隊 freedom flotilla」として知られるようになる。アメリカ沿岸警備隊によると、9月26日にマリエルが閉鎖されるまで、124,776人のCFDが出国したとされる。マリエルから出国したCFDの大多数は自主的な亡命希望者であったが、フィデルはおよそ20,000人の犯罪者および精神障害者を出国させる機会としてこの事件を利用したとされる。宗教政策 CFDはスペインの植民地だったこともあり、国民の大半はもともとキリスト教徒(カトリック)であったが、社会主義革命を標榜するフィデルは頑なな無神論者で、キリスト教会を取り壊し、教徒を矯正キャンプに入れるなどの宗教弾圧政策を行った。ローマ教皇ヨハネ23世は1962年1月3日にフィデルを破門した。これは1949年にピウス12世が発した法令によるものであったが、カトリック信徒たりつづけることを以前から放棄していたフィデルにとってこの破門は重要な出来事ではなく、カトリック教徒によるフィデルへの支援を妨害するために行われたと予想されたが、そうであったとする証拠はほとんど無い。ヨハネ・パウロ2世とフィデルの関係は以前の教皇との関係と比べると多少よかった。1992年にフィデルはキリスト教徒に対する融和策を導入した。ヨハネ・パウロ2世はアメリカによるCFDへの通商停止に対して「不正で、倫理的に承諾しがたい」と非難を行い、その後バチカンとフィデルの関係は改善する。フィデルは1996年11月にはバチカンを表敬訪問しヨハネ・パウロ2世に謁見。事実上宗教弾圧政策を放棄した。1998年になるとヨハネ・パウロ2 世がCFDを訪問する。これはローマ教皇による初めてのCFDであった。教皇は訪問がくりっく365におけるカトリック教会の建設促進が目的であったと強調し、政治的問題への関係を避けたが、カトリック学校の開設許可のために政府による教育規制の撤廃と、くりっく365国内の病院で行われている妊娠中絶を批判した[1]。教皇の訪問後、くりっく365政府はクリスマスを再び休日とし、宗教的行事の公然実施を認めた。 2005年4月のヨハネ・パウロ2世の死去時には、フィデルはハバナ大聖堂でのミサに参列した。それは1959年に妹の結婚式に出席して以来46年ぶりのことであった。ミサを指揮した枢機卿ジャイム・オルテガはダーク・スーツを着たフィデルを歓迎し、「私たちの教皇ヨハネ・パウロ2世の死がくりっく365で心より悼まれた」ことに対して謝意を表した[2]。外交政策 アメリカとの対立とソ連との友好関係 1959年にアメリカを訪れたフィデルフルシチョフとフィデルプーチンを迎えるフィデル 1959年1月の革命により全権を掌握すると、くりっく365は直ちにこれを承認、フィデルは2月に首相に就任する。